年間聖句年間聖句

2017年の年間聖句

「神は新しい天と新しい地を創造する。」(イザヤ書65章17節)

 年間聖句とは、この学園で学ぶ者、働く者が一年間を通して指針とすべき聖書の言葉です。
人は誰でも幸せを求め、充実した日々を願って歩んでいます。しかし、なかなか理想どおりにはいきません。どれほど立ち止まること、見失うことの多い日々を過ごしているでしょう。まして苦難の中、悲しみの中に身を置く時は、希望ある明日を思い描くことなどできず、悩み、途方に暮れ、絶望し、立ち尽くしてしまいます。年間聖句はそのような時のための指針です。立ち返るべきメッセージを心に刻み、日々の業にあたりたいと願います。

 2017年はイザヤ書65章17節からの御言葉が年間聖句として与えられました。この箇所で神は預言者イザヤを通して、「わたしは新しい天と新しい地を創造する」と、約束してくださいました。「新しい」というからには、「古い」天と地が念頭にあるのでしょうか。少し聖書のページをさかのぼって考えてみましょう。
 聖書の物語は、神による天地創造から始まります。その冒頭には、「初めに、神は天地を創造された」という有名な言葉がつづられています。原典のヘブライ語で読むと、「創造」には「バーラー」という単語が用いられています。これは主語に神しかとらない特殊な用語で、全く何もないところから、有意なものを創り出すことを指します。「有意なもの」とは何か——それは、互いが尊敬しあい、受け入れあい、配慮しあう世界で、ギリシア語では「アガペー」(愛)と言い表されました。聖書によれば、人間はアガペーの担い手として創造されました。しかし残念なことに、人間は自己本位な生き方を展開し、軍事力や政治力、経済力を優先させる、混沌とした別の世界を作り出してしまったのです。イザヤは、「神はその現状を放置することなく、「新しい」世界を創造(バーラー)する」と告げたのです。「新しい」とは「古い」に対応する語ではありません。「本来の」という意味です。「本来の姿」をよみがえらせる、と。
 わたしたちの生きる現代も、まさに混沌としています。わたしたちの周りに渦巻く不安や心配ばかりでなく、世界に目を転じた時、どれほど多くの人々が、苦しみ、艱難(かんなん)の中に身を置いていることでしょう。わたしたちはこの現実に仕える学園でありたいと願います。神が今わたしたちに求めておられるのは、絶望とも思える世界の闇の中でのなりふり構わぬ行動ではありません。聖書は「本来の姿」の再認だと述べるのです。清水安三先生以来示されてきた、この学園の本来の姿——聖書の精神に基づく「学而事人」を身につけた人を世に送り出すこと——を生き抜くことだと宣言するのです。

 絶望から希望へ、苦しみから喜びへ。「新しさ」を示す確かな光を信じて、忍耐と勇気をもって「新しい」1年を歩み出しましょう。

創立者愛唱聖句

「為ん方尽くれども希望を失わず」(文語訳)  コリントの信徒への手紙二 第4章8節 
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、 途方に暮れても失望せず」(新共同訳)

 出典は初期キリスト教の伝道者パウロの手紙です。キリストの使徒であるとの自覚をもったパウロもその布教活動では多くの困難を体験しました。鞭打たれたこと、石を投げられたこと、難船して海上を漂ったこと、盗賊に襲われたこと、飢え渇いていたこと、裸で凍えていたこと、等々の体験をしました(『コリントの信徒への手紙二』11章)。このようなパウロの言葉だからこそ、学園創立者清水安三の生きる支えとなったのでしょう。心血を注いできた北京崇貞学園が「終戦三か月後」(1945年11月)に北京政府によって接収された時に安三先生は、この言葉を思い起こして再起し、帰国して桜美林学園を設立したのです。そして、「再起再出発を私は身をもって諸君に教えるのである。諸君が将来世に出て、事業に挫折しても商売に失敗しても、自殺などするでないぞ。家族心中なんてもってのほかだ。挫折したらもう一度立ち上がればよい」と書いています。(『石ころの生涯』395頁以下)。